人の子守に託していた。山道を行く観光バスの中で、事件は起こった。 どこからか放たれた一発の銃弾が窓ガラスを付きぬけ、スーザンの肩を打ち抜いたのだ。
あたりに病院は無い。リチャードはバスを移動させ、スーザンを医者がいる村へと運ぶが、溢れ出る血をとめる応急処置がやっとだった。 リチャードが救援に来ないアメリカ政府に苛立つ間、徐々に事件は解明され、やがて1人の日本人男性にたどりつく…。
「アモーレス・ペロス」「21グラム」のアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督作品。 日本で大きなニュースとなった菊地凛子の米アカデミー賞ノミネートをはじめ、数多くの映画祭で映画賞を受賞、ノミネートされています。
これまでもズシリとくる重い作品を撮り続けてきたイニャリトゥ監督ですが、本作「バベル」はそれ以上に重厚で、響く作品でした。
「バベル」のテーマとなっているのは、”過ち”。 メキシコ・アメリカ・日本・モロッコと世界を舞台に、それぞれのエピソードで愚かな過ちを起こす人物が描かれています。 しかし、過ちを犯すのは悪い人間ではなく、偶然にも過ちを犯してしまった、あるいは、犯さざるをえなかった人物たち。 だからこそ彼らの人物描写・感情表現は観ているだけで胸を締め付けられるように苦しく、言葉では簡単に言い表せない、”演技”以上のものとなっています。
「私は悪い人間じゃない。愚かな事をしてしまっただけ。」劇中で、家政婦が泣きながらこぼす言葉。 「バベル」のテーマを表す一つのキーだと言えるでしょう。
また、「バベル」で一躍有名なった菊池凛子ですが、やはり非常に存在感があります。 もともとチエコ役には本物のろう者を起用するつもりだったイニャリトゥ監督を納得させた演技力、女優としての力強さは必見。
その菊池凛子が主人公の日本のエピソードですが、他のエピソードと比べ視点が若干異なっているためか、”浮いている”という感想をよく目にします。 私も途中までは多少そのような感覚を持ちましたが、観終わったときの感想はそれとは違うものでした。
他のエピソードと比べると、表面上はある種平和ボケしたかのような日本が描かれていますが、話が進むにつれ見えてくる内面(チエコの複雑な胸中・精神状態)は他のエピソードのそれを凌駕するものがあります。 前者は他のエピソードとの”対比”として、そして後者は他のエピソードを”まとめる”上で重要な役割を果たしています。
環境が違っても、話す言葉が違っても、表面上では雲泥の差があったとしても、内面の部分では共通しているということを表すために、題名を「バベル」としたのかもしれませんね(聖書における「バベルの塔」で、バベルの塔という一箇所に集まっていた人々は、神に言語をバラバラにされたため、世界各地に散っていったとされています。)。
余談ですが、「バベル」を観て思い出したのが、イニャリトゥ監督が「アモーレス・ペロス」のコメンタリーで語っていた映画論(「必要の無いものは描かない」「同じものを何度も観せない」etc)。
多少謎が残ったとしても、本質を描き出すために計算しつくされた脚本・演出に、上の映画論が頭をよぎったのでした。 イニャリトゥ監督が作りたかったものの1つは、「バベル」で完成されたのではないでしょうか。
個人的には、非常に完成度が高い作品だと思うし、文句のつけようがないですが、あえて問題点を言うならば、あまりに大きな話題にしすぎたことですね。
本来ならミニシアターで公開、あるいはコアな映画ファン向けの映画であるべき作品なのに、大きな話題になってしまったものだからメジャー系の映画を好む人たちまで安易な感動を望み「バベル」を観賞し、酷評を下すという事態が起こっているように感じます。
もともとイニャリトゥ監督の作品はテーマ性が深く、一般向けの作品ではありません。 個人的には「アモーレス・ペロス」「21グラム」より酷くなったとは思いませんが(むしろ完成度は高くなっているように思います。)、全2作に比べ異様に評価が低くなっているところを見ると、やはり観客層が変わったのが大きな原因でしょう。
「バベル」は安易な感動を得るために観るわかりやすい娯楽映画ではなく、さらに言うならポップコーン片手に観るような映画では決してありません。 重い映画、深い映画が苦手な方はご注意を。